運営代表
初めまして。二重 朔と申します。
私のプロフィールページに訪問していただきありがとうございます。
フリーランスWEB屋の二重 朔(さく)と申します。
早速ですが、フリーランスWEB屋の実情を、直視する準備はできていますか?
もしあなたが今。
社畜のような生活から抜け出し、フリーランスとして自由に生きたい。
スキルは身につけたはずなのに、自力で収益(0から1)を生み出せない。
結局は下請けや安売りに終始し、売上が伸びないまま疲弊している。
そんな「出口のないループ」にいるのなら、あなたに足りないのは新しい技術ではなく、稼ぐための「生存戦略と覚悟」です。
このサイトは、誰かを慰めるための場所ではありません。
物理的、あるいは社会的な「逆境」からWebという武器一本で生還するための、冷徹なロジックを共有する場所です。
私がどん底から1年で構築した、営業・開発・インフラ・管理・運用の5工程を一人で掌握し、確実に「数字」を動かすための一気通貫のワークフロー。
その戦略的な核(コア)を、このサイトでは記録していきます。
私がフリーランスのWEB屋になった理由
普通という選択肢が消えた時、残されたのがフリーランスのWEB屋でした。
私は中卒です。
17歳から始まった夜の世界(水商売)の10年から始まります。
一度はその世界を離れ、建築現場で働く道を選びましたが、そこで発症したのが「複視(視界が二重になる)」でした。
物理的に距離感が掴めない状態での現場作業は、自分だけでなく他人の命を危険にさらします。
肉体労働という選択肢が消え、一方で10年の社会的空白を持つ私を雇うまともな企業もありませんでした。
生活のために再び夜の世界に戻らざるを得ない中で、私は自問しました。
身体的ハンデがあり、履歴書も真っ白な自分が、独力で生き残る方法は何か?
その答えが、フリーランスのWEB屋でした。
自由になりたいとか、格好いいフリーランスになりたいといった、キラキラした動機ではありません。
ただ、生きるために。
野垂れ死なないために。
残された唯一の道を、死に物狂いで突き進むしかなかった。
それが、私がフリーランのWEB屋になった唯一にして最大の理由です。
自由という名の「戦場」で、自立を勝ち取るための記録。
この業界には、自由を求めて独立を目指しながら、一歩を踏み出せずにいる方や、すでに戦場(フリーランス)にいながら、理想とは程遠い現実に直面している方が数多く存在します。
厳しいことを申し上げますが、フリーランスという生き方は、すべての責任を一人で負う「覚悟」がなければ、以前よりもさらに過酷な「社畜」への逆戻りを招くだけです。
AIが進化し、単なる制作スキルの価値が暴落する今、その覚悟がない者は真っ先に淘汰されていくとおもいます。
私自身、フリーランスとしての7年間、クラウドソーシングや下請け案件を一度も利用せず、すべて直接契約と自社メディアの運営のみで生存してきました。
営業、開発、インフラ、管理、運用。
この5工程を一人で完結させ、確実に「数字」を動かしてきた私の7年間の記録が、あなたが自立したフリーランスとして生き残るための道標となることを願っています。
私がこのサイトを立ち上げた理由は、Web系フリーランスがスキルを搾取され疲弊する構造を打破し、自立を志す方が二度と「社畜」へ逆戻りしないよう、私が7年間積み上げてきた『生存の記録』を共有するためです。
二重 朔のプロフィール概要
これまでの経歴、保有スキル、および7年間の活動で積み上げた実績の概要をまとめています。
職歴
これまでの経歴、保有スキル、および7年間の活動で積み上げた実績の概要をまとめています。
ナイトレジャーグループ キャバクラ店統括(17歳~24歳)
25店舗展開のグループにて、キャバクラ15店舗のNo.2・エリア統括を歴任。
17歳からスタートし、現場実務のすべてを習得。
個別の店舗運営において「数字を出す最小単位」を確立し、店長として1店舗の利益を最大化させる術を磨く。
店長としての実績を背景に、エリア統括・グループNo.2へ昇進。
当初3店舗だった体制から、ゼロからの新規開拓を学び指揮し、15店舗以上の運営規模へと拡大。
市場選定、コンセプト設計、人材確保、集客導線構築まで、事業スケールの全行程を掌握。
グループ内(全25店舗中、自身の管轄15店舗)の不振店に介入。
現場の歪みを特定し、組織構造とマーケティングを再編。
数多くの「死に体」だった店舗を黒字へと再生。
総合防水3年・空調ダクト工1年(26歳~30歳)
ナイトレジャーの世界から足を洗い、約1年間は貯金だけで生活。
いざ一般社会へ出ようとした時、目の前にある履歴書には、約8年間にわたる「書けない経歴」という大きな空白が残る。
手に職をつけるため、知人の紹介で建築現場の世界に飛び込みむ。
マンションの修繕工事を主とする防水工(左官・防水・塗装)として約3年。
文字通り「石の上にも三年」という職人の徒弟制度の中で、最初の2年間は手元(助手)として下積みに明け暮れる日々。
しかし、そこで突きつけられたのは、天候に左右され、親方の采配一つで稼ぎが決まるという、圧倒的な「環境依存」の現実。
一日1万円の日当で貯金に頼らざるえない現実に絶望。
より効率的に、より確実に稼ぐために選んだのが、屋内作業が中心の「ダクト工」への転換。
昼はゼネコン、夜はテナント工事。
天候に左右されない強みを活かし、昼夜二部制の現場をがむしゃらにこなすことで防水工時代とは比較にならない実入りを確保。
断たれた職人の道。
不治の病の宣告と半年間の空白
ダクト工として1年が経ち、この道で生きていくと決めた矢先、目に異常。
複視。
見るものすべてが二重に重なり、距離感が掴めない。
眼科の検査では異常が見つからず、大きな専門病院で下された診断は「ミトコンドリア病」の疑い。
細胞の異常により、目を動かす筋肉が正常に機能しない。
日本では複数の症状が重ならないと正式な認定は下りないほど症例が少なく、何より「治ることはない」と告げられる。
ダクト工の現場は、重量物を複数人で運ぶ場合も多数ある。
視界が定まらない私が足を踏み外せば、自分だけでなく仲間に大怪我をさせてしまう。
その責任を負いきれないと判断し、私は職人の道を断念。
そこから約半年間、絶望した私は引きこもり、社会との接点を失う。
より効率的に、より確実に稼ぐために選んだのが、屋内作業が中心の「ダクト工」への転換。
昼はゼネコンの大型現場、夜は商業施設のテナント工事。天候に左右されない強みを活かし、昼夜二部制の現場をがむしゃらにこなすことで、防水工時代とは比較にならない実入りを確保。